Fitzgeraldの日常

通訳案内士資格保有の貿易業の日常を書き綴っております。

こーいう本を読みました( 1 )

奥田英朗『オリンピックの身代金』

 
f:id:fitzgerald_jp:20131203213208j:plain
 
最近の政治家の失言といえば、石破茂氏の、あの発言だろう。あの発言とは、具体的には
 
絶叫戦術はテロ行為と本質においてあまり変わらない
という、特定秘密保護法案反対のデモことをさした発言。政治家が失言をするということは、普段から大人数の前で発言をする機会が多いわけであるし、今回の石破氏の発言に限ったことではないが、マスコミが意図的に、「その部分」だけを抜き出して報道していることもあるから、短絡的に失言と結びつける事は危険だと思える。
  よくよくニュースを見ていると、最近デモが多いと感じる。原発再稼働反対から嫌韓まで、以前に比べれば多種多様なデモが、ここ日本で行われているようなのだ。自分の単なるイメージなのだが、近年これほどまで、ここ日本でデモが行われた事は無かったように思える。そして、それを一種の好奇の目で報道しているマスコミと一般大衆。昨今の報道にはこのような構図があるように思える。ただ、この構図の根底には、日本人は【お上に従順】で、【何よりも世間の協調を望む】という日本人のイメージへの盲信があるように感じるのだ。
  その日本人のイメージは果たして正しいのか。歴史的に見れば、少なくとも政治に対しての不満は「一揆」という形の実力行使があったし、数十年前の学生運動なども大きなデモである。もちろん、学生運動後期には、それが次第にテロリズムに変容していくのだが。つまりは、日本人は決して上記のような『静かな』国民性ではないのである。
 
  さてさて、前置きが長くなったが、ここからが本題。奥田英朗『オリンピックの身代金』を読了。この本を読もうと思ったのは、朝日放送でドラマ化されるということをネットでみたからなのだが、読んでいると、なんだか昨今の社会ともリンクする部分があって、ただ単なるサスペンスを超えて楽しめた。
昭和39年夏。10月に開催されるオリンピックに向け、世界に冠たる大都市に変貌を遂げつつある首都・東京。この戦後最大のイベントの成功を望まない国民は誰一人としていない。そんな気運が高まるなか、警察を狙った爆破事件が発生。同時に「東京オリンピックを妨害する」という脅迫状が当局に届けられた!しかし、この事件は国民に知らされることがなかった。警視庁の刑事たちが極秘裏に事件を追うと、一人の東大生の存在が捜査線上に浮かぶ…。「昭和」が最も熱を帯びていた時代を、圧倒的スケールと緻密な描写で描ききる、エンタテインメント巨編。                              《BOOKデータベース》
  これはAmazonから引用した内容紹介なのだが、なんだか腑に落ちない。むしろこの小説をエンターテーメント小説として捉えるのであれば、「大どんでん返し」もなければ「衝撃の結末」もない。かなり早い段階で、この事件の犯人は特定される。そしてその東大大学院生が実際の犯人なのだ。
  犯人が早々に特定されていたとしても、この小説には最後まで読ませてしまう「何か」がある。それはおそらく、東北の貧しい農家から上京してきた東大大学院生が、なぜ爆発予告をするテロリストになってしまったのか、という一点である。
  疎遠であった兄の死によって、昭和39年という日本が先進国に仲間入りした年に、彼はこの日本社会の歪に気づく。
首都の恩恵を受ける人たちと1年の半分以上を出稼ぎに出なければいけない貧しい農民。上下水道と公共機関が整備されつつある東京と、まだ焼け野原に獣道だけの農村。そしてオリンピックの為に建設されている大型建造物と、その建設に従事している貧しい人々。主人公は兄の死の真相を知る過程で、この社会の不公平を憎んでいくようになる。
  この小説の面白さは、この一人のエリートがテロリストに変貌して行く過程が緻密で面白いのだ。そしてなにか現代とリンクする部分もあると感じるのだ。
 
  少なくともつい最近まで自民党が、国民の支持と多くの政治家を有していたのは、間違いなく政治家には利権を、そして国民には、全国民の全層に対して公平に予算を配分していたからである。つまり自民党は政党というよりかは、予算配分機関であったのである。
  考えてみれば、デモやテロがこの日本で行われるのは、格差がある時ではある。そう考えれば、昨今のデモのニュースをみるにつけて、もう既に日本が「日本総中流」社会では無くなってしまったのかもしれない。この小説を読み進めていくうちに強く感じたのは、主人公がテロリストに変わっていく事に対しての共感ではなく、日本社会の変貌で有ったのだ。