Fitzgeraldの日常

通訳案内士資格保有の貿易業の日常を書き綴っております。

こーいう本を読みました( 2 )

 

  先日、文化放送の『大竹まことゴールデンラジオ』に、かの大江健三郎氏が出演するということだったので、サーマルラジオで聴いた。現代の日本文壇を代表するノーベル文学賞作家であるのに、全く奢ることもなく、眈々と自分の意見を話しているのが印象深く、また自分の不甲斐なさを恥じる気持ちになったのである。それも多くの点で、私とは意見を異にしている、いわば正反対の政治思想の持ち主の主張に、胸が熱くなったのだ。私が大江健三郎氏の主張で強く同意している事は、「脱原発」だけであると言っても過言ではない。

 さて、大江氏自身、最後の長編小説といっているように、今までの著作を読んでいなければ、楽しめないかもしれない。現実とフィクションが絡み合って、またその私小説部分が非常につまらないのも事実だ。だが一つ、戦争体験者で『広島ノート』の著作があり、「筋金入りの原子力反対論者」である大江氏の、その3.11以降の「思い」を知る事は出来るかもしれない。

  
f:id:fitzgerald_jp:20131214002711j:plain
 
  時間は無慈悲に去り、ある出来事は一つの記号に変化してしまう。もちろん風化させまいと人はするかもしれないが、大災害も時間が経てば、ただ一つの出来事になってしまう。それ自体に自分は何か思うところあるわけではなく、そうではなく、そこから何か教訓を得ているのかと常々感じるのだ。あの大震災と、それに起因する原発事故より2年が過ぎたが、我々は何を得たのだろうか。未だに原発事故は収束に程遠い状態ではあるのに、本当に危険な情報を意図的に伏せることで、現在の日本政府は原子力発電を再開させようとしているようである。
 
  もちろん、脱原発には相当の力が必要だろう。政官財とマスコミ、そして大国の思惑までもが複雑に絡み合った原発利権を一つずつ解き解く事は、並大抵のことではない。現役官僚が書いたという『原発ホワイトアウト』を読めば、「原子力ムラ」と呼ばれる利権がよくわかる。
 
f:id:fitzgerald_jp:20131214005233j:plain
  間違いなく、日本政府は原発を再稼働させるだろう。一部、小泉純一郎元総理や山本太郎氏などが積極的に脱原発を叫んではいるが、果たして強固なムラを破壊させられるだろうか。
原発ゼロは、最良の選択だ。企業も国民も心構えは出来ている」「安倍首相が脱原発の方針を決定しさえすれば、それを実現できるだろう」(11月12日・日本記者クラブ
さて、それに対して安部首相は

政権を与る者として、国民の生活と経済に支障をきたさないようにエネルギー政策をすすめることが、私の仕事だ」 

つまりは、(安易に原発ゼロにする事に対して)無責任に口にすることは出来ない。というスタンス。また多くのマスコミも原発再稼働を推進している政治家も、小泉氏が首相時代に原子力発電を推進していたにもかかわらず、引退した後に世間に来迎し脱原発を発言することは無責任であると、安部首相を擁護する論陣を張った。
小泉氏の主張への反論ではなく、小泉氏の立場について反論しただけで、いわば論理のすり替えにしか感じない。そこには小泉氏の主張に真っ当な反論をする材料が無い、推進派の苛立ちも感じられた。
 
 原子力発電所の事故が起こっていない状態で、また電力会社のばらまいた「安全神話」のせいで、地球温暖化が問題と絡めて最もクリーンな発電だと信じられていた過去と、未だ収束が見えない事故後では方針が変わって当然である。そして、私たちはもう2年以上も原子力発電無しで電気を利用している。そのような中で、本当に原子力発電を再稼働させる必要があるのだろうか。
 「私は生き直すことが出来ない。しかし私らは生き直すことが出来る

原子力発電所の事故も、未だ完全に原子力発電をやめられないのも、国家でも電力会社でもなく、「わたしたち」である。

 『In Late Stayle 晩年様式』の主人公、長江(大江氏の分身)は3.11の映像をテレビで見、階段の踊り場で声を出し泣く。為す術もないあの大震災の悲劇の前で、ただ泣くだけであった主人公。そして現在もくすぶり続ける原子力発電所事故。その絶望的状況下においても、大震災後の社会に希望があると、大江氏はこの著書の中で伝えたのである。